はじめに
こんにちは。SREセクションの青木です。
2026年3月24日〜25日の2日間、シンガポール・セントーサ島で開催された eTail Asia 2026 に参加してきました。 eTail Asiaは、アジア太平洋地域のeコマース・小売業界のプロフェッショナルが集まるカンファレンスです。 2日間にわたってAI活用・D2C1戦略・ブランディングといったマーケティングをテーマとしたセッションが行われました。 私はエンジニアとしてOisix ECサイトの運用に携わっていますが、今回は普段触れる機会の少ないビジネス観点のインプット目的で参加しました。
本記事では、2日間で私が聴講した28セッションの中から特に印象に残ったセッションを深掘りしつつ、APACのeコマース最前線で共通して語られていたテーマをお伝えします。

カンファレンス概要
会場はシンガポール・セントーサ島のEquarius Hotelです。 セントーサ島はユニバーサル・スタジオやリゾートビーチが集まる観光地です。 レジャースポットというイメージが強いのですが、今回は少し奥まった一角にある自然に囲まれた高級ホテルがカンファレンス会場として使われていました。
セッション形式として印象的だったのは、パネルディスカッションの多さです。 普段参加するテック系カンファレンスでは登壇者が一人でスライドを使いながら話すプレゼン形式が中心ですが、eTail Asiaでは複数人の登壇者がモデレーターの問いに答えながら議論を深めるパネルディスカッション形式が主流で、9割近くを占めていました。 「正解を教えてもらう」よりも「業界の現在地を複数視点から聞く」という体験に近く、情報の多様性を感じました。
テーマとしてはAI一色といっても過言ではなく、2日間のセッションのうち半数以上がAIに関連する内容でした。 私がこのカンファレンスに参加したかった理由の一つが「ビジネスサイドの人間がAIをどう見ているか」を知ることでした。 エンジニアとしては「AIは使いどころを選ばないと効果が出ない」「AIを活用するための環境・データの整備が重要」という肌感覚を持っていましたが、結論から言うとそれはビジネスサイドでも全く同じでした。
印象に残ったセッション
※アジェンダやセッション内容は一般公開されておりませんので、一部簡略化したタイトルを記載しています
AIのPoC止まり問題
該当セッションタイトル
- [Panel] How to shift from siloed pilots to end-to-end AI and API-First systems that unlocks ROI across logistics, supply chain, omnichannel operations, and offline in-store analytics to deliver measurable impact
- [Panel] Avoiding the AI trap and applying AI where it actually works
eTail Asia 2026を通じて最も多く語られたテーマの一つが、「AIのPoC(Proof of Concept)が本番運用に進まない」という問題でした。複数のセッションで同じ悩みが繰り返されていたことは、これがAPACの小売業界が抱える共通課題であることを示していると思います。
PoC止まりになる理由
パネルディスカッションでは、AIが本番運用に進めない要因として3つが挙げられました。
- レガシーシステムとの不適合
- ERPなどの既存システムとAIが噛み合わず、現場の業務プロセスとの乖離が生じてしまうためです
- コンプライアンスとガバナンス
- 企業規模での運用に移行する際、法務・セキュリティ・データ保護の壁が予想外に高いと複数の登壇者が語っていました
- データ品質の問題
- "No good data, No good AI"という言葉は、別のセッションでも言及されており、AIが扱うためのデータが整備されていることが最も重要であると繰り返されていました
失敗から学ぶ
失敗談として、カスタマーサービスボットの事例が挙げられていました。 技術部門だけで開発を進め、CXチームとの連携が不足したことで、リリース後に他システムとの連携不備が発覚し、大幅な作り直しを余儀なくされたそうです。 また、生成AI検索のトークンコストが想定の数十倍になり、本番リリースが6ヶ月以上遅延したという事例も紹介されていました。 AIをセクシーな技術として導入したことが問題の本質だった、という笑いをとった言葉で紹介されていましたが、 本当にあるあるな事例だな、と感じました。
どう乗り越えるか
成功事例を見ると、いくつかの共通点がありました。 例えば、RFIDとAIを組み合わせた在庫管理で棚卸しを効率化したり、別の企業ではキャンペーンサイクルをAIを使って月次から週次に短縮してROAS2を改善したりしました。 これらに共通するのは、モジュラーアーキテクチャ(マイクロサービスで機能を分離し再利用可能にする)と技術非依存性(特定ベンダーへのロックインを避ける)という設計思想でした。 そしてもう一つ重要なのが、「ビジネス側がツールで要件を定義し、エンジニアが基盤を構築する」という協働体制です。
エンジニアとしてこれらのセッションを聞いて感じたのは、日本でもAPACでも、課題の構造はほとんど同じだということです。 PoC止まりの原因はAIの技術そのものではなく、データ基盤・組織体制・ROI定義という、AI以外の要素で決まっているようでした。
Agentic Commerceに対するさまざまな視点
該当セッションタイトル
- [Keynote] The Shift to Agentic Commerce - What Retail Leaders Must Rethink Now
- [Panel] Are you ready for agentic commerce?
Agentic Commerce(AIエージェントが人間の代わりに商品を探し、比較し、購入まで完結させる世界)は、個人的には最も意見が割れているな、と感じたテーマでした。
Intent Economyという概念
キーノートで登壇したMastercardのスピーカーは、商取引の歴史を3つの時代で整理しました。 店舗に足を運ぶことが価値だった"Access Economy"、インターネットとスマートフォンで注目を奪い合う"Attention Economy"、そしてこれから訪れる"Intent Economy"、つまり、AIエージェントが消費者の意図を理解して購買を代行する時代です。
Intent Economyの実例としてとある一連の映像が紹介されました。 ユーザーがAIエージェントに「Zootopia 2を観たい」と伝えるだけで、上映時間の検索、座席選択、決済まで完結したといいます。 これはデモではなく実際の取引として行われたと強調されていました。
Agentic Commerceが実現されつつある中で、重要なのはエージェント最適化(機械が読むためのテキストベースで画像不要な情報)とヒューマン最適化(ビジュアル、感情的つながり、ブランド体験)の両立であると主張していました。
Agentic Commerceに対する懐疑派の意見
興味深かったのは、別のパネルディスカッションで登壇した3名のパネリストが、揃って慎重なスタンスをとっていたことです。 「Agenticはバズワード化している」「現状はまだCo-pilotモードの段階」という発言が目立ち、完全自律型エージェントによる購買は責任の所在や信頼性の観点から課題が多いという見解でした。
その中で印象に残ったのが、"organic3"(発見的な購買体験への欲求)という論点です。 ディナーの場所やバーベキュー食材の選択も、AIに丸投げするのではなく自分で発見したいという人間の欲求は根強い、という話でした。 確かに、旅先で歩きながら偶然見つけた店に入る楽しさや、スーパーで旬の野菜を見て今夜の料理を決める体験は、効率化とは別の軸にある価値です。
また、Agenticに備えるよりも先に土台を固めるべきだ、という主張もありました。 つまり、商品データの整備、機械可読性(machine-readable)の向上、既存システムとの連携など、AIエージェント時代に限らず、今すぐ取り組むべき、基盤の整備が重要とのことでした。
ブランド価値による差別化
該当セッションタイトル
- [Keynote] Creating a "WOW factor" to differentiate in a price-sensitive market – How to best communicate value beyond discounts, deals, and loyalty gimmicks
このセッションで登壇したのは、Salted eggフレーバーのスナックで知られるシンガポール発のブランド、IRVINSです。
値引きがブランドを壊す
IRVINSが語ったのは、顧客をディスカウント待ちにしてしまう危険性です。 セール・クーポン・ポイント還元を繰り返すと、顧客は次第に正規価格で買わなくなり、常に最安値を探し回るバーゲンハンターを生み出してしまいます。 一方で、ブランドの価値を理解して「誇りを持って支払う顧客」を育てることができれば、競合との価格競争から抜け出せると言います。
IRVINSは定番商品のポテトチップスを競合より30~40%高い価格で発売し、"Dangerously addictive"(危険なほど中毒性がある)というコピーをブランドアイデンティティに据えました。 ハンドクラフト製法や高品質な原料をストーリーとして伝えることで、価格を正当化しています。
ブランド価値作り
セッションでは、ブランド価値を創り上げるための方法として、次の6つが挙げられていました。
- 価値の再定義:競合ベンチマークではなく、独自の価値を設定
- プロモーション削減:頻繁なキャンペーンを抑え、長期的に利益的なものに転換
- エコシステム構築:会員限定イベントやプレオーダーで特別感を演出
- ストーリーテリング:商品開発プロセスやR&D投資を伝える
- チャネル戦略の差別化:
- 小売:サンプリングや体験重視
- コンビニ:顧客獲得プログラム
- オンラインマーケットプレイス:限定商品やバンドリングでコアSKUを守る
- 体験の創出:ディスカウントではなく、ポップアップストアなどで記憶に残る体験を提供
Oisixとの関連
Oisixは食品ECとして、安さではなく「食の安全性や豊かさ」という価値で戦っているブランドです。 定期便の継続率を高めるために値引きを使いたくなる場面はありますが(個人的にも安さを求めてしまうこともありますが)、IRVINSの話を聞いて、その施策が長期的にどんな顧客を育ててしまうかを考え直すきっかけになりました。
余談
シンガポール滞在中に訪れたスーパーでIRVINSの商品を発見し、値段に驚愕しました。 普通のポテトチップスがS$1~2程度の中、IRVINSにはS$10近い値札がついていました。 これはスーパーで買う値段じゃないと思いつつも、買ってみたいという気持ちも湧きました。 結局ポテチは買わずに手が届きやすいS$3のカップ麺を選びましたが、この体験がセッションの内容をリアルにしてくれました。
まとめ
AIへの期待と現実のギャップは世界共通
"No good data, No good AI" という言葉は、今回のカンファレンスで最も多く聞いた言葉かもしれません。 FairPrice Groupは5つに分断されたデータベースの統合から始め、複数の登壇者が「データが整っていない状態でAIに投資しても意味がない」と口を揃えていました。 当たり前のことではありますが、世界の共通課題でもあるんだなあと、改めて実感しました。
Agentic Commerceに備えよう
Day1のAgentic Commerceに対する熱いセッションを聞いて非常にわくわくしましたが、 Day2の懐疑論を聞いて、まずは落ち着いて基盤の整備をしなければならない、と我に返りました。 エンジニアとしては派手な未来の話に飛びつきがちですが、地味な基盤整備を先にしなければなりません。
エンジニアとして参加して良かったこと
このカンファレンスはビジネスサイドの人間が多い場です。 エンジニアとして参加するのは少し場違いかもしれないと思っていましたが、結果的には「ビジネスサイドの方々が何を課題に感じているか」を直接聞ける場として非常に価値がありました。 自分たちが作っているシステムの先に何があるかを知ることは、設計や運用の判断軸を持つ上でも大切なことだと改めて感じました。
最後に、このような機会を与えてくれた会社と、参加を快く承認してくれた上司に感謝します。
- Direct to Consumerの略。メーカーやブランドが小売・卸売業者などの仲介を通さず、自社ECサイト等で消費者に直接販売するビジネスモデルのことです。↩
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Return On Advertising Spend(広告費用対効果)の略。
ROAS = 広告経由の売上 ÷ 広告費 × 100(%)で算出されます。↩ - ここでいう"organic"とは有機ではなく、"Organic Marketing"を意味します。広告費を直接投じず、検索エンジン(SEO)やSNS、コンテンツマーケティングを通じて、自然に(オーガニックに)顧客を呼び込む手法のことです。Organic Marketingの対義語は"Paid Marketing"であり、広告費を払って集客する手法です。エンジニアの私には馴染みのない単語で、今回初めて知りました。↩
